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かつては日々の食事メモでした。

悩むということ

家に帰るのが遅れた。私のせいではない。しかし私のせいでもある。

いつもの通りいつもの時間に帰ろうとしていた。さあ今日も片付けて終わりだと思い気持ちが弛緩してきたそのときだった。トラブルが発生した。不測の事態。にわかにざわめきだす人々。顔からは笑みが消えた。そして私は、帰るに帰れなくなった。

もちろん私がどうこうできる問題ではなかったし、私の周囲にいる人々が慌てているだけだった。私は黙ってじっとしているしかなかったし、できることは何もなかった。いや、あったのかもしれないし、考えるだけ無駄なのかもしれない。

すぐには沈静化しないトラブルだった。じわりじわりと時間が経ち、気づけば帰ろうと思い立った時分から1時間半が経過していた。なんなんだこれは、帰らせてくれ。そんな思いが募った。しかし言い出せなかった。困りあぐねた人々を尻目にかえりまーす!なんて言えなかった。私のせいではない。しかし私のせいでもある。

こういうときどうすれば良かったのだろう。何かやることを見つけようと努力する姿勢は、長期的な社会人間関係を築くのに有効かもしれない。あるいはサクッと割り切って帰れるほうが潔く思われたかもしれない。そんなことで悩むのはバカバカしいが、悩んでしまうものは仕方が無い。悩むのを先送りにすることは出来ても、悩むことそのものを捨て去れないのが私なのだ。

この不要な悩みについては、私の脳みそが忘却してくれるまではウジウジ抱え続けるのだろうと思う。私という人間にとって、悩みというのは、放置できても放棄は出来ないものであり、その一方で、私という人間は、結構簡単に物事を忘れてしまう軟弱な頭の持ち主でもある。まあそういうことだ。

以前どこぞのオッサンにストレス解消法について尋ねられたことがあるが、当時はうまく答えられなかった。もちろん今なら答えられる。これでいいのか?と思うし、これでいいのだ!とも思う。今はたくさん考えてしまうが、この話も、どうせすぐに忘れるのだ。