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かつては日々の食事メモでした。

地元密着型人生

生活圏は自宅及びその周辺。つるんでる仲間は小中からの付き合い。そいつらの子供もまたその土地で育つ。そんな人たちの暮らしぶりを私はかねてより「地元密着型人生」と呼んでおり(且つそれは近年マイルドヤンキーなどとも言われるものだが)、それをとても否定的に見ていた。毎日同じやつと会って同じ居酒屋で飲んで同じこと喋って、何もないこの町にずっと居座って働き続けて、それで何が楽しいんだ。そう思っていた。

小中は地元の学校に通っていた。地元というか、家から歩いて数分の近所にあるしがない公立校である。いろいろな人がいた。ヤンキー、おたく、バカ、スポーツマン、お調子者、ガリ勉、エトセトラ。向いてる方向は皆ばらばらで、性格も千差万別だった。私はといえば、当時は今よりもっと内向的で、友達もずっと少なかった。ネットとラジオばかりが楽しみで、同級生に対しては「玉石混交だな」と斜に構えていた。正直言って誰ともウマが合わないし、こんな学校早く出たいという思いがあった。そして高校は、地元から少し離れた進学校に行くことにした。

そんな経緯から、地元には友達が少なかった。愛着もそれほど持っていなかった。現在に至ってもそれほど芽生えていない。今となっては誰ひとりとして連絡を取る人はいない。道ですれ違っても気づかないかもしれない。私自身も当時に比べ体重が激減したこともあり、向こうさんも気づいていないかもしれない。とにかく地元とのつながりは皆無で、それだけに余計、地元密着型人生なんてありえないと思っていた。むろんマイルドヤンキー的な人たちのことも、苦手意識もあり冷ややかに見ていた。

過去形で書いているのには理由がある。ここまでの内容はあくまで過去の話だからである。今は違う。あまり自覚はなかったが、どうやらここ数年で私の心境に変化があったらしい。今はそれほど、以前に比べということでなく絶対的な意味でも、地元密着型人生って悪くないかもしれないと思えてきた。社会に出て大きなことをやる、人付き合いが増えていく。それはそれで素晴らしいことで、知らない世界に入門する喜びはなかなかどうしてPRECIOUSである。そんな一方で、コンフォートゾーンに引きこもるのも悪くないよなと思える瞬間が出てきた。現実からの逃避願望が見せる幻影かもしれない。そこにはワクワクもドキドキもないかもしれない。それでも時折見せる悪魔的な魅力が、ぬるま湯にはある。

何がいいのかなんて考えることはしない。自分に合っているのはどちらかなどと深刻に考えることもしない。考えれば考えるほど五月病的なものは進行しそうである。何をやっても「ここではないどこか」を気にして上の空になってしまいそうである。これを心の弱さだとか甘えだとか言うつもりはない。否定も肯定もない。単にそう思うという話であって、それ以上でも以下でもない。麻婆豆腐を食べたら美味しいと思うし、ブルーハーツを聴いたらかっこいいと思う。それと同じことだ。それでもふと、かつて忌み嫌っていたはずの地元密着型人生に思いを馳せてしまう。隣の芝生は淡く青い。