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かつては日々の食事メモでした。

やりたいこと

それを頑として持っている人は強いな。そう思う。

私にはやりたいことなんてひとつもない。人生の岐路ではいつも、成り行き任せの風任せだった。何かに向かって進むことはあるが、高校に受かるためとか大学に入るためとか、本質的にはすべてが短期的な目標に過ぎなかった。長い目で見て何かをやりたいとか、そこに向かってひた走るとか、そんな事はしたことがないしどうやら今のところもその予定はなさそうである。やりたいことを頑として持ってる人は強い。

目標を持とう。そこから逆算して今を生きよう。人生の先輩方はそうアドバイスする。もっともだと思う。目的意識があれば何をやるにしても効率がいい。効果も出やすい。内容を振り返ってのKAIZENもしやすい。野望を持とう。少年よ大志を抱け。それができる人だけが、それを実践している人たちが大成している。自分のやりたいことをやれている。じゃあそれができない人たちはどうすればいいのか。それを持たない人たちはどうなってしまうのか。そんなもん知らんと唾棄されるのがオチなのだろう。

目標とは考えて生み出すものなのだろうか。考えて考えてひねり出すものなのだろうか。私の生き方はそれを肯定しない。成り行き任せの風任せ。何かをするときは、何かに向かって自分を突き動かすのはいつも必要性であり必然性だった。それをする必要があった。それをするだけの必然性があった。やりたいことは、即ちやるべきことに等しかった。逆に言えば野望も大志もなく、ひょっとすると自らの意志で何かを成したことは一度もないのかもしれない。そう考えると寂しいが、悲しいかなそれは否定できないかもしれない。

自分のやりたいことは何なのか。今やっていることはそこにどう位置付けられるのか。それに対して、今すべきことは何なのか。トップダウン的な物の考え方が求められている。ボトムアップ的な発想を捨てることは出来ないが、非従来的なアプローチが要求されているのは事実だ。いつも同じやり方で上手くいくとは私も思っていない。いよいよツケが回ってきた。ただそれだけなのだ。いや、考えようによっては普段通りかもしれない。「トップダウンで発想する。その"必然性"に駆られている」。そう思うことで、多少なりとも過去の自分を救済してやることができる。そんな気がする。