ツイッター以上ブログ未満

かつては日々の食事メモでした。

自己研鑽とか自分磨きとか

ってのをKPIにしてくる会社、好きじゃないなぁ。そういうのって業務外に自己負担でやるわけだよね。お金も時間も自分持ちで、しかし業務で必要な、昇格に必要な資格やスキルはさっさと身につけろって?どうもしっくりこないんだよなぁ。いやそれが社会をサバイブするのに必要だったり、お給料をチャリンチャリンするのに貢献したりってのは分かるよ?でもそれって自己責任というか、やった人がやった分だけ得すりゃいいじゃんってやつで、KPIにされるとちょっとなぁと思う。いや単純にダルいだけ、面倒くさがってるだけだという説は否めないけど。ちょっとなぁとは思うものの結局はそれに従っちゃうわけだけど。

果たして雨の日は油断できるのか

花粉。雨天時は飛散していないだろう、ましてやこんな寒い日に。たかを括ったところでどうにも止まらぬ鼻水をどうにかすることは出来ない。仮説が間違っていたのか、はたまた風邪の前兆か。よく分からないがカバンの中にマスクが入っていたのは不幸中の幸いと言う他あるまい。備えあれば憂いなし。グッジョブ、おとといの自分!

連日酒を飲んでいる

この楽しさを忘れないよう、飲酒から得られた快楽や幸福を一過的なもので終わらせないよう、飲み会の楽しい記憶を記事として残していこう。なるほど、これは決意に近い何かかもしれない。写真を撮るように、アルコールが灯す一瞬の蜃気楼を切り取るのだ。いや、あるいは独り言に近い何かかもしれない。言いたいことを言う、書きたいことを書く、それでこそインターネットだ。将来自分が身体を壊したとき、酒が飲めない身体になったとき、「まぁあのとき思い切り飲んだしもう後悔はないよね」と笑顔で振り返れるためにも、日々の一杯一杯を抱きしめながら、楽しかったあの飲み会に還れる手掛かりを残していくことが大事なはずだ。話の内容はなんでもいい。そのとき楽しいと思える瞬間瞬間を連想してるに過ぎないのだから。酒に酔った状態においては、時代性や普遍性の伴うガチトークには何の重きも置くことができない。大事なのはそのときどう思ったかであり、刹那的に浮かびは消えるラブとピースの連なりなのである。インプロビゼーション感をスナップショット的に残していく。それが出来れば二つの意味で少しだけおもしろいはずだ。

今日は職場付近の飲み屋がいよいよもってノーフューチャーで、実は三駅隣のあそこに可能性が広がっていたことがわかった。具体名は避けるが大きな発見だった。ノーフューチャーとはワンチャン感と同義であるけれども、いやしかしそれにしても、後で読み返した自分に伝われば十分と思い何もかもぼかして書いてみたが、うーん、いま酔ってるしな、後から読み返しても詳細を思い出せない可能性が多分にある。でもまあいいか。家に着いたしあったかくして寝よう。あそこをああ行ってああしてあそこをそれしたそこ。明日の自分が状況を理解できたら、その店はホンモノだ。よし、ささやかな希望を持ちつつ、ひとまず寝るか。

ファミマよ永遠なれ

今でこそセブン1強(自分調べ)の昨今だが、かつての私の青春、高校生活を彩っていたのはいつだってファミリーマートだった。本稿は下書きフォルダに埋もれていた2年半前の内容に加筆修正したものであり、先程書き終えたはずの記事がアプリのエラーで消えたことの腹いせも少しは兼ねている次第である。

当時通っていた高校は、これといった校則もなく、自由闊達な雰囲気のある学び舎だった。のどかな町並みも相まって、皆がのびのびと過ごす憩いの空間だった。どのくらい自由かというと、在校生のあいだで唯一守るべきとされていたルールが「上履きを履くこと」だけだった。実際には、サンダルのまま上がり込んだり上履きのまま外に出たりするなど、それすらもろくに守られていなかったのだが。断わっておくが、決して荒れていた高校ではない。しかし自由ではあった。

校内には食堂がなく、生徒はめいめい母親の手作り弁当や、工場勤めのパートさんが汗水垂らして作るコンビニ弁当を持参するのが常だった。あるいは昼休みや放課後になると買い食いに走ったものだった。校門を出てすぐのところにコンビニが控えており、それがファミマだった。高校生活が人生のすべてに近かかったあの頃、傍らにあるのは常にファミマだったわけである。
よく買っていたのはスパイシーチキン、アメリカンドッグ、ピザまんの3点セット。それが昼食だったのか間食だったのかはよく覚えていない。しかし大抵はこの3点セットだった。全てレジで済む内容である。ファミチキが当時発売されていたかは矢張りよく覚えていない。値段は今よりも安く高校生の懐にも優しかったことは覚えている。むろん身体には一切よくないだろう。しかし朝夜は実家の健康メシが待っていたので、一応バランスしていたのだと思う。近頃はホットスナック自体買うことが減ってきた。もちろん金欠は主たる理由のひとつだが、あまり積極的ではないにせよ健康を意識してのこともあるかもしれない。
高校の時分は寝ても覚めてもスパイシーチキン、アメリカンドッグ、ピザまん。今では酒、酒、酒。時の流れの無情さに幾ばくかの虚しさを感じつつも、まあそれも人生だと納得させるしかない。当時の生活を彩る要素のひとつに、ファミマはたしかに存在していた。いまの生活は何に彩られているのだろう。酒一色ではないことを祈るが、それはまた未来の自分が振り返ってくれるはずだ。

2時間は2時間にあらず

しかし2時間は同じ2時間である。何が言いたいのか。昨夜、生中2杯ハイボール2杯を2時間かけて流し込んだ私は帰宅の途につきながら大変心地よい気分だった。ほろ酔いって言うの?割と気分よく飲んだけど意識はハッキリしてるっていうの?しかしそれに輪をかけて良かったのは、時間がまだ8時を回っていないことだった。えっ今から帰ってもまだ7時台?みたいな。

つまり言いたいのは、5時から7時まで飲むのと、7時から9時まで飲むのと、9時まで飲むのとでは、同じ2時間の飲酒でも感じ方が全然異なるという、その気付き。昨晩は前者であり通常は7時スタートであり2次会から参加するならまぁ後者ってとこだろう。1日とはこの2時間が12回巡ってくるものだけど、同じことをしていても時間帯によって感じ方が異なるなら、自分にとって最適な過ごし方ってあるんじゃないの?そんなことをぼんやりと思う火曜日の朝は、電車の乗る向きを間違えて遅刻気味なバッドモーニングからスタート。勘弁してー。チーン。

今から帰って洗濯を

するかしないか、その選択を迫られている。風呂は命の洗濯かもしれないが、明日着ていく服がない以上、明日の服が選択できない以上、優先されるべきは服の洗濯である。そう、命の洗濯は二の次。そんな選択は洗濯の前には無力。心を洗う前にまず洗うべきは下着であり、洗われた下着がタンスに戻れば心も洗われるというものである。

先週末、洗濯そっちのけで暴飲に走った自分の選択は誤っていたのだろうか。いや誤っていたのだろう。洗濯を選択できない弱さが、その選択が、今朝の疲労感へと繋がったのだ。昨夜、選択すべきは洗濯であり、洗濯という選択を選択できなかった自分に、洗濯を選択する資格はないと言えるだろう。いや、それもまた過ぎた話か。

先刻、直帰するのかしないのか。洗濯するのかしないのか。そんな選択に揺れていた。しかし、あー俺ってば流されやすいからね。あろうことか居酒屋に立ち寄ってきてしまった。何たる選択。しかしそれもまた人生。いや分かっていたけど。いやーでも、酒を飲むときって、居酒屋を選択するときって、洗濯のことなんて忘れるね。完全に忘れてました。おかげさまでそこそこいい時間です。

さて蓋を開けてみれば。週末の反省が活きたのか、暴飲は避けながら、しかしてそれなりに酒は進み、ほろ酔い気分で帰宅の途。本日の戦績、生中2杯ハイボール2杯。しかしこの選択、意外にも心を洗濯することになった。衣類にタバコの匂いがつくことも無く、洗濯無用。泥酔もしていない。うーんいいぞ。心の洗濯。いやー心が洗われたな。この清々しい気分でもって、家に着いたらいよいよ洗濯をする。今はその選択しか見えない。

花粉のやばさも相まって

週のはじめの月曜日にも関わらずなんだこの疲労感は。一番の原因はHulu見すぎの夜更かしであることは明白であるとして、しかしそれにしても気だるすぎる感じがする。金土日と終日誰かと居たせいもあるかもしれない。ここ数日の暴飲も影響が大きそうだ。今週は寒暖差の激しい週になりそうだし、とりあえず今日は無難に乗り切ることを第一に考えねばなるまい。

「トドメの接吻」はそんな夜更かしの原因の一つだが、なかなかどうして面白い。オリンピックが終わった途端、今度はドラマブームが興りつつある。なんとなく常に次の展開が読める感じが続きつつ、しかしそれなりに次が気になって見てしまう。今後の展開自体にそれほど期待は強くないにせよ、「つまらなくならないでくれー」という願いを持って視聴している(今第4話)。