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かつては日々の食事メモでした。

家に忘れ物をした朝は

いやもちろんモノにも拠るのだけど、それが準必需品であった時の地味ぃーにダルい感じは筆舌に尽くし難い。と言うと流石に大げさかもしれないが、もっとも半分事実だとは感じていて。例えばイヤホン。無くても生きていける点では、これは自分にとっては紛れもなく必需品ではない。しかし無いなら無いで、音楽が聴けず通退勤から潤いが失われる。音楽狂であれば必需品と言えるのかもしれないし、そういう人種はエイもういっそ買っちまえーとなるのかもしれない。しかしそこまでの強迫観念にも迫られないので、準必需品と言っていいだろう。無いと、地味にダルい。それからポケットWiFi。これもまあ、社外からPCを繋ぎたいときに必要ではあれ、スマホテザリングで代用可能な以上やはり"準"なのだろう。しかし無いとダルい。いっそスマホWiFiに繋いでやりたい。そして月々のデータ利用を抑えたい。それだけに、無くても成り立つが無いと若干不便になる。地味にダルい。

準必需品というのはひよっとすると造語なのかもしれない。調べる手間を惜しんで勝手にそう思うことにする。しかしその位置づけは一体どこにあるだろうか。一体何なのだろうか。無くても生けていけるが無いと生きるのがダルくなるもの。あると利便性が上がるが無いからと言って不便さに磨きがかかるわけでもないもの。そういう意味では、とある著名な研究者K氏の言葉を借りれば、魅力品質を備えたもの、ということになるだろうか。しかしそれが生活に根付くことで当たり前化し、無くなるとネガティブな気分になってくる。これか?これなのか?今回はパッと思い浮かんだ例としてイヤホンとポケットWiFiを挙げてみた。まさにいま家に忘れてきたモノたちである。他にもあるのかもしれない。知らず知らずのうちに自分の生活に潤いを与え、あるいは入り込み、失われて初めてその必需感に気付く何か。よし、思い付いたらまた考えてみよう。そうした準必需品がなくなった生活というものを。